外洋機動艦隊 外伝
『革命の二十人-20 revolutionists-』




ジェイン動乱から数えて約70年前。20世紀半ばのこと。

人々はまだ非暴力による平和に希望を持ち、

世の現実に絶望していなかった時代。

世界が二つの主義によって二分され、それぞれが対立している〝東西冷戦”と呼ばれた時代。

人々は、いつ来るかも知れぬ滅亡に、微かな不安を抱いていた。





外洋機動艦隊 外伝

『革命の二十人-20 revolutionists-』







曲がらねば世は渡れず。

しかし、正しき者には安らかな眠りを。

我ら公の安定を守るもの。

使命全うのために、手段は問わない。





第一章 Ⅰ





1976年9月4日   東京都  警視庁







 この警視庁庁舎は36年前の東京大空襲の時に、B-29から投下された1トン爆弾の直撃を受けてもビクともしなかったと言われる。それを裏付けるようにこの建物の屋根には爆弾の直撃を受けた得に出来たクレーターの修繕跡がまだ残っている。何しろ、天井の厚さが5メートルというのだから、当時の爆弾では貫通できない。専門家によれば現用の爆弾でも建物そのものの破壊は難しいだろうと言うことらしい。

しかし、国会議事堂、日本銀行、首相官邸と並んで、大戦前の骨董品といっても良いこの警視庁庁舎は、組織の規模拡大による内部施設の拡張から、この度新庁舎に建て直されることとなった。しかし、強度が強度なため、建設の予算より取り壊しの予算の方が多いという皮肉な結果にもなった。

 その庁舎の奥の奥、人はほとんど通らず、特別の用がある者が日に2、3人通れば良い方の区画に『印刷室』と札の掛かった部屋がある。その部屋の中には50年代から使用されている書類印刷機に、捜査などで使用されたカメラのフィルムを現像する現像機が置かれている。

その部屋に一人のハンチング帽を被った男が入って来た。その男はカッターシャツを第2ボタンまであけて、さらにサングラスを胸ポケットに掛けているので、何とも人相が悪い。

そのハンチング男は数多く立ち並ぶ印刷機には目もくれず、その部屋の一番奥へ足を進めた。一番奥にはまたドアがあり、ハンチング男はそのドアを開けた。

そのドアの向こうには、通常の捜査室と同じように机と椅子が置かれているようだが、そこには一人だけ制服を着た警官が居るだけだった。

「いやあ、あいつまったく口を開かんわ……」

ハンチング男はそう言って、苦笑いを浮かべた。それに制服警官は笑みで返した。

「もう1週間も黙秘ですか、大した根性ですよ。」

「ああ、亡命して来たはともかく、こちらへの〝手土産”も開示しなければ、亡命の理由も黙秘、挙句に神谷町が奴の暗殺を企てるは、最近俺ら踏んだりけったりだわな。」

 ハンチング帽男はハンチング帽を机に置きながら深くため息をついた。

「宮本さん呼びますか?三枝さん」

「いや、あっちも忙しいからな。官邸に根回しに行った課長にはミヤさんが必要だし、多分、あのウラジミール相手なら俺で十分だよ。」

 三枝と呼ばれた男は、黒い表紙の帳簿を取り出して事情聴取の記録を書き始めた。彼の名前は三枝守、これは本名ではない。彼らの職務上本名を語ることが出来ないのだ。

「新潟県警と青森県警、それから北海道警の公安課から、最近ソ連亡命者の報告が多発してます。それは三係が対処しているんですが、神谷町の動きもおかしいそうです。やはり向こうでなんかあったでしょうか。」

「あるな。でも大々的なことではない。あの男、赤坂の情報ではアルザマス16の研究者だ。そうゆう奴があからさまに黙秘って……、生活環境の劣悪さで亡命してきた奴の行動じゃない。何か密命でもおびているか……」

 それを聞くと制服警官は立ち上がって電話を取った。

 因みに彼の言う手土産とは向こう側の極秘の技術や情報などのことを言う。亡命と引き換えに技術を提供するのは通例といえば通例だ。それを持っているからこそ、こちら側で身の安全が保障されるのだ。特にアルザマス16のようなソ連の軍事技術、核兵器技術の開発を行っている機関の研究員は、必ずと言っても良いほど、技術を持って来るものだ。

ところで赤坂とはCIAの在日工作員が駐在している米国大使館のことを関係者が揶揄して言っているものだ。ちなみに警視庁公安部は桜田門と呼ばれており、ソ連の諜報組織であるところのKGB、GRUは神谷町と呼ばれている。

因みに、日本で諜報活動を行う外国の諜報員は、大使館の名義を使うことが多い。日本は1976年現在、アジアで有一の先進大国で、ヨーロッパとも肩を並べる有一の国だった。しかし、ロシア人がイギリスに入国して活動するのとはわけが違い、東洋人の容姿や顔などから、黄色人種社会に白人種の人間が入るのは容易ではない。

そのためヨーロッパで常等手段とされている密入国や一般人に成りすます浸透と呼ばれる方法(ソ連ではユーリーと呼ばれているもの)は、諜報には向かないのだ。そのため公的機関の身分で行動し、現地で情報屋を確保―ゾルゲしたほうが良いのだ。

この方法は、日本だけでなく、ヨーロッパでも行われていることだが、日本ではこの方法にほとんど限定されてしまう。入国管理はこの時代には世界有数に厳しく、不用意に密入国などすれば、すぐに逮捕されてしまう。

「各公安課に通達しときます。」

 三枝は「おう」と会釈しながら帳面に目を落とした。

 警視庁公安部外事一課、特にこの部署は四係と呼ばれている。

 この係は書類上の部署で、明確に執務室を持たない。だから印刷室の奥に執務室があるのだ。

一般的には警察とはテレビドラマの刑事の様に事件が起きて、それを捜査するというイメージが強いが、公安と言うのは事件が起きる前にそれを阻止するといっても良い警察職だ。それに捜査対象もスパイや思想犯、宗教がらみの犯罪、組織犯罪で、他の警察とは一線を隔している。

 警視庁は一般には誤解されやすいが、東京都内のみ管轄している、各都道府県警察に近い。だから東京以外にも、昔は大阪にも警視庁があったそうだが、そこまでの必要なしとして廃止された。

日本に数多くあるこのような諜報組織の中で、警視庁公安部は最も実動している組織と言えよう。公安部のほかに、内閣府に内閣調査室と呼ばれる諜報機関もあるが、警察ほどの捜査権限はない、あくまで内閣の重要な政策の決定に必要な情報を収集し、助言するのが目的だ。法務省の公安調査庁も似たようなものである。公安部からは内閣調査室はまだしも、公安調査庁は全国八百万の公安機関の頂点に立ったような顔をして、そのくせ捜査の知識もろくに無いので「出しゃばりの張りぼて」と揶揄されている。防衛庁・自衛隊にも陸上幕僚監部調査部と言うのがあり、規模も日本最大だが、彼らの職務上、警察ほどの捜査活動が出来ないのが現状だ。任務も無線傍受など軍事的なものが中心で、これは公安組織とはまた違う。外務省にも国際情報統括官組織と言うのがあるが、日本がCIAやKGBのように、外国での情報収集が出来るわけも無く、人員も外務省の人間はほとんどいない。事実上、公安刑事の海外出張時の身分程度にしかなっていない。

同じ警察であるが、警視庁を傘下に入れる警察庁の公安課でさえ、捜査権限は小さい。これは他の警察職でも同じだが、警察庁はあくまで国家公安委員会の傘下にある全国の警察署を統括するための中央官庁であり、警視庁は統括されている現場の警察だ。と言うのが公安にも影響を及ぼしている。

このような組織に関して重要なのは、それを統括する部門ではなく、末端の実働する部門らしい。警視庁が警察庁と並列して見られるのは、公安部に限らず、実働部隊としての実力による発言力からと考えても良い。

 外事とは、特に海外の人間のスパイ活動などの阻止、その類が職務だ。警視庁公安部外事課は、現在三課編成で一課は東欧共産圏、二課は中国、アジア諸国、もう一つ総務課がある。

 平たく言えば、米国のCIA、英国のMI6のような諜報員と言っても良い。日本には米国のこれらのような諜報組織は存在していないから、実質上この部署がその役割を担う。実際に捜査上で、彼らとの情報交換も密に行われている。とはいっても任務はあくまで情報収集ではなく、それの阻止で、警察の職責上の公共の安定あるから、そこから入手される情報は警察職務上の副産物と言ってよい。だから、彼らは亡命者が持ってくる情報も、しかるべき機関に引き渡すまで開かないのだ。

 四係がこの扱いなのは、超法規的捜査を主流に行っているからだ。もちろんそれが目的で設立されたわけではない、実際は外事捜査に於ける重要機密情報の取り扱いが目的だったが、それを取り扱う上で、どうしても超法規的捜査が必要になってしまったのだ。

その典型的例が、このウラジミール研究員の亡命だ。それを容認して、向こうの情報を収集する。さらに民間人や対象国の大使館職員などをスパイにゾルゲし、それによって国内に居るスパイの居所を捜査することもしている。彼らから言わせれば、1の犯罪を容認して、10の犯罪を阻止するのも辞してはならないということらしい。

 事実上この四係が、日本全国の対外諜報組織の根幹を成す大部分と言っても過言ではない。

しかし、犯罪を見つけ出しても、逮捕は基本的にせず(と言うよりも、外交官特権とかその類のものが邪魔をして、逮捕が出来ないというのが実際)、証拠を固めて当該人物を確保し、行動を認めさせ、国に帰し、二度と入国できないようにする。それが基本的仕事だ。そのため必然的に8割は尾行、1割5分は定点監視、残りが身柄の拘束と自白強要だ。地味すぎる仕事ではある。

 彼らから言わせれば、『こんな仕事が華々しかったら、この国は戦争中だわさ。』と言うことらしい。

 制服警官は受話器を置くと、テレビのスイッチをひねった。

 因みに公安部の捜査において、一般大衆が成す、『世論』というのは大切なものだ。民主国家において世論は国会で決められる法律より、拘束力があるといっても過言ではない。メディアの発達により、情報の伝達が早まり、政治家たちの動きがリアルタイムで伝えられるようになったから、政治家たちは世論におびえるようになったのだ。つい20年前までは劇場映画などで、映像のニュースが流れるのみだったし、ラジオでは伝えられる情報に限りが出てくる。新聞にも限りはある。百聞は一見に如かずだから、映像情報は非常に重要になり、そのため情報全容が分かるのに、一ヶ月遅れは当たり前だった。

(―いわゆるロッキード事件を受けて、与党自民党への批判が強まっていますが、一部信用できる筋からは、年内の総選挙は避けられないとの事で、一層の政局の不安かが心配されています。さて、ロッキード事件で七月に逮捕され、先月保釈された田中前総理ですが―)

 三枝も書類を書き終えて、そのテレビに目を移している。

「田中角栄は二度会ったことがある。」

 三枝は唐突に口を開いた。

「一度目は田中角栄が通産大臣だったとき、二度目は外務大臣だったときだ。二年の差があったんだが、顔を覚えてくれていて、中々の政治家だと思ったんだが……」

「三木首相の復讐ですか。」

「そりゃないだろ。まあ、一枚絡んでる気はあるがな。三木首相は支持する国民が多い、自民党自体の人気は落ちているがな。珍しい事態だ。党は人気が無く、総理の人気があるとはな。何はともあれこの国有一の政治のプロの喧嘩には違いない。その渦中に別の話題で首を突っ込むのは課長で十分だろう。」

 田中角栄と三木武夫は、『政治のプロはこの二人ぐらいだ』と呼ばれるほどの人物だ。

制服警官はうなずいた。

「さて、じゃあ、そろそろ戻るは。あっ、巡査。」

 部屋を出て行こうとした三枝は、思い出したように制服警官を呼んだ。

「はい?」

「すまんが、取調べに立ち会ってくれ。」

「ええ!?一人でやってたんですか!」

「いや、もちろんいたさ、でもな、そいつが腹痛起こしてお前と変わってくれっていうから、ここに来たのはお前を呼びに来たんだ。」

「そうゆう事は、早く言ってください。」

 制服警官は制服帽を被り、早足で部屋を出る三枝についていった。







 一方そのころ   永田町 首相官邸





「で、つまりは親ソ派の議員の圧力を、私の権限で抑えろと、そういうことを言っているのだな?」

 首相官邸の主は怪訝な顔を浮かべながら、片方はスーツ姿、もう片方はスーツは着ずにカッターシャツにネクタイを着けただけ男たちに言った。

「そのように考えていただければ結構です。先ほど申しましたように、ソ連人高官の亡命が相次いでおり、その手の議員からの捜査へのなんらかの圧力も多少感じられるようになりました。ですので総理のほうで我々が今までどおりの行動が出来るようにしていただければ結構です。」

 日本国内閣総理大臣三木武夫はうなずいた。彼は世間一般には政治浄化に尽力し、防衛費1パーセント枠を成立した総理として、国民の支持は硬い。最近ではロッキード事件の責を受けて、自民党への批判が相次いでいるが、彼自身は何も関与していない。公安部でもそれは関知している。世間の評判どおり彼は『クリーン三木』というにふさわしい。まあ、それが彼の選挙での勝機とも言うべきなのだが。

「いいだろう。それはこちらで対処する。しかし、状況が状況だ。自民党への批判で、内部の派閥が分裂の危機に瀕している。ここだけの話、私はもう長くないかもしれない。そのときは公安が独走と言うことにもなりかねんが……」

「……分かっております。」

 この初老のスーツ姿の男は、警視庁公安部外事一課課長本庄清定、公安部ではあるがこの名前は本名だ、彼は公的に顔が割れているので、偽名を使うわけには行かないのだ。

その筋の者からは容姿と性格から『禿狸』と揶揄され、また恐れられている人物だ。彼の行くところには常に陰謀が渦巻いており、またその黒幕は、再起不可能になるまで詐欺的に陥れられるという。

 噂によれば、昔、旧日本陸軍の中野学校と呼ばれる諜報を学ぶ学校で学んでいたという。現在では旧中野学校として、日本の公安関係者はそこで学んでいるが、大戦当時に、そこで学んだ生徒は、戦後戦犯として多くが処刑されたという。が、彼は戦時中に皇室付情報顧問補佐に引き抜かれ、木戸内大臣のもとで働いていたため、生き残ることが出来た。まあ、あくまでも噂ではあるが……それを証明する証拠は終戦時に焼却処分された機密文書の中にあるので、存在していない。

ただ、屈指の諜報指揮官であることは、内外ともに評価されている。

本庄は、今日は総理に『捜査の邪魔を排除してくれ』と頼んでいるが、実際は『捜査をするからお気をつけください』と言うことを潜在的に植え付けに来たのだ。三木総理は『クリーン三木』と呼ばれているものの、公安警察の職務には理解を示している。総理もこの意図を感づいているだろう。

「で、四係の方で対処しているウラジミールなる科学者はどうなっている?」

 三木は訊いた。

「はっ、現在事情を聴取していますが、様子がおかしいです。今までのあらゆる亡命者とは違います。完全に黙秘しています。希望する亡命国も今朝の時点では申し出ておりません。」

「どうゆうことだ?」

「現状ではわかりません。」

「君ほどの人物が手こずる事案ということか。」

「残念ですが、そう言わざるを得ません。」

「……」

 三木はそこで沈黙した。

「何か大きなことが起きる可能性も示唆しておいてください。」

 本庄は静かに言った。

「だろうな、後はよろしく頼む。」

三木が言った。本庄は静かにうなずいた。







 帰りの廊下は妙に沈黙していた。

 先ほど記したように、対戦前の建物で残っているひとつがこの首相官邸である。だが、同じ時代を生きた建物でも警視庁とは違う空気を出している。警察官たちの喧騒がない首相官邸は逆に落ち着かない。まあ、喧騒慌しい首相官邸なんて存在しないし、そんな官邸見たくもないが……。本庄は早足で廊下を歩き、それに付く男もそれに続いた。

「総理はああ言ってましたけど、結局何かあっても責任は取れんと言うことでしょう?」

 男が苛立ちを押さえるように言った。

「政治屋とはそう言うものだ。田中角栄にしても三木武夫にしても、結局は 国民の代表者でしかない。公僕は最終的にはパフォーマンスによって世界を動かすしかないんだ。特に日本はな。そのような時のために、我々のような組織があるのだぞ。宮本。」

 男の名前は宮本浩臣、これも偽名だ。彼はこのような接見に、よく参加している。ロシア語が堪能なため、ソ連関係の情勢をロシア人から直接聞くことができる。そのため東欧共産圏の情勢に精通している。彼はアイヌ民族出身者だが、本庄はその語学力に公安の素養を見出し、北海道警から引き抜いた。1970年台は部落差別がまだ潜在的に横行しており、官僚組織の跳梁である警察組織においては、その差別は類を抜いている。しかし、本庄に言わせて見れば、人の肌の色や、文化によって赤い血の通った人間を差別する様な者は、もはや警察官ではないということらしい。事実それが原因で、本庄に詐欺的に陥れられた官僚は少なくない。しかし、宮本本人にしてみれば、そんなところに引け目を感じることも無かった。

「そういえば、四係の藤村係長が、明日、帰国する。3年ぶりだな。」

「ああ、長い出張でしたね。ベトナムで終わるはずが、はるばる西ドイツまででしたからね。藤村の姉さんも可愛そうに。」

 藤村、藤村朋美警視は公安部外事課きっての公安捜査の天才で、紅一点だ。三年前に北ベトナムにある人物を探しに出張して以来、重ね重ねに海外での仕事が入り、結局アジアを縦横断した後、ヨーロッパまで達してしまったというわけだ。因みにこのような海外出張では、先ほどの外務省の身分を使うが、大使館内では公文書を届ける伝書使として扱われており、その仕事もこなさなければならない。

 顔を知っているのは四係内でも宮本と三枝ぐらいで、彼女が居たころの捜査員は全員他の部署で出世しているか退職している。こうゆう組織は、その職務上、ごく短期間で退職するか、定年するまで居るかのどちらかである。彼女の顔を知っている人間は、おそらく本庄の年になるまで公安刑事だろう。

 二人は赤絨毯の首相官邸をしばらく歩いた。途中、数人の職員とすれ違ったが、何者だ?と言う視線を送られただけで、特に何も無かった。

しかし、一人の男は違った。廊下の角でまるで待ち構えていたかのように出てきたその男は、夏にもかかわらず黒いスーツに黒いカッターシャツ、そして黒いネクタイと言う『黒装束』だった。

 本庄は見ただけで怪訝な顔を浮かべた。見るからに官邸の職員ではない。二人はその男が行く手を塞ぐように立っているので立ち止まってしまった。その男は室内にもかかわらず、ハットを被っていた。明らかに夏場の格好ではない。しかし、ハットの影で少しだけ見える顔は涼しげなものだった。そして、額に斜めに傷が走っていた。

「警視庁公安部外事一課の本庄さんですね。」

 本庄はさらに怪訝な顔を浮かべた。公に顔が割れているとはいえ、普通は知らない人間のほうが多い。つまりこの男は、”関係者”の可能性が高いということだ。

「そうですが、あなたは?」

 本庄は探るような口調でそれに答えた。

「私、こうゆう者でして。」

 男は低く、暗い声で胸ポケットからひとつの手帳を出して、中の身分証明証を見せた。本庄はそれを黙読した。組織は……陸上幕僚監部調査部戦略研究室主任。陸幕か。しかし、聞いた事のない部署だ。名前は高岡雄雅人……。

「陸上幕僚監部調査部戦略研究室主任高岡……ユウマサ……」

 本庄は声に出して一読したが、そこで止まった。名前の呼び方が分からない。

「オガトと申します。いやあ、なかなか正しく読んでくれる人にめぐり合わない。確かに珍しい名前ではあるのですがね。」

 高岡は口調を変えずに言った。

「ですが、今ではなかなかいい名前だと思っている。何せ一度教えれば大抵記憶に残っていますからね。特にこの顔の傷と合わせてね。」

 高岡は人差し指で額に斜めに入った傷をなぞった。何の傷だろう。本庄は一瞬詮索したが、すぐに本庄の目を見据えた。

「その陸幕の方が、私に何の御用ですかな。」

「今、起こっている事件に関してです。ウラジミールといいましたかな。彼を始めとした亡命者たちに関してです。」

 本庄は心の中で身構えた。ウラジミールの件は秘匿されており、外事一課以外の人間は知らないはずだ。もとより、亡命そのものが違法なのだから、そのようなことを洩らすはずがない。それをなぜこの男が知っている?宮本も怪訝な顔になっているようだ。

「驚くのも無理はない。実は陸幕でも独自に調査をしておりましてね。こちらでも数名の亡命者を確保しているのです。その一人が妙なことを言いましてね。失礼だとは思いましたが、情報交換のため、直接出向かせていただきました。」

 高岡は淡々と喋った。本庄も今回の件では情報が少なかった。この男とは関わらないほうが無難な空気だが、この状況下でそういう訳にはいかない。下手に警戒してマークされても困る。

「いいでしょう。話を聞かせもらいます。」

 本庄は情報収集を取り、高岡との間に、一線を引くような表情で言った。







同時刻  北海道  千歳基地





この基地はソ連の侵攻を主眼において、戦力が整備されている。

航空自衛隊で主力となっている《F-4EJファントム》は、全国でもここに集中配備されており、全国でも最も有名な航空基地のひとつだ。今日もまた、訓練飛行のため《ファントム》は滑走路から飛び立っている。

民間空港と併設されている飛行場なので、これが飛び立った直後に民間の飛行機が離発着することは必ずと言ってよいほどある。

 空自の敷地は併設されている民間施設を超えている。エプロンはだだっ広い平野といっても過言ではないほど大きい。小学校3校分の運動会は軽く出来るかもしれない。そこを何十人の整備士とパイロットたちが行き来している。

「第一小隊ですね。小牧に定期整備でしたよね。」

 彼はこの基地で若い部類に入る戦闘機パイロットだ。名前は結城京介、天才と言うわけではないがこの職に対する熱意は人一倍持っている。

「ああ、そうだ。三菱の工場に新型の電装品の取り付けもかねてというらしい。最近、装備の近代化が著しいからな。」

 その前を歩く中老の男が結城の言葉に答えた。この男は屋島良治、第2航空団第201飛行隊第3小隊隊長だ。彼も飛行技術がずば抜けているわけではないが、部下への飛行指導や日ごろの生活における指導において、上司、部下から厚い信頼を得ている。

「新装備といえば、例の次期主力戦闘機の選定、あれはどうなっているんです?」

「あの話はどうやら米軍の《F-15イーグル》でおおむね決定のようだが、米軍の一部幹部でそれに反対する動きがあるらしい。どうなることやら。」

 最近、旧式となった《F-104Jスターファイター》の新機種への転換が実問題として自衛隊内で話題になっている。最近は仮想敵であるソ連の軍拡が著しく、スクランブルの対処も多いため、高性能の機体の申請が進んでいるのだ。

「そうだ、娘さんの元気ですか?確か小学校……」

「4年生だ。もうすぐ運動会なんだが……」

「そりゃ、帰ってあげませんと。」

「だがな、この職に就くとなかなか帰ってもこれんのだ。何時召集が掛かるかも知れんしな。」

 普通、自衛官は官舎に家族を連れてくるものだが、屋島は子供が学校を転々としてはいけないと思って、三重の自宅に家族を置いてきて、単身赴任しているのだ。北海道から三重までといったら、そうそう簡単に帰れるわけではない。

「でも、休暇は取れるんですから、行ってあげたほうが―」

「屋島二佐!」

 すると後ろのほうから基地の事務担当の声が聞こえてきた。二人はそちらのほうを振り向く。

「飛行隊司令がお呼びです。至急司令公室までお越しください。」

 屋島は流暢な敬礼をする事務担当にうなずきながら、とんぼ返りしていく事務官のあとを追った。





「航空幕僚監部の方が何のようです?」

 部屋の中には航空自衛隊の制服を着た幕僚たちが集まっていた。何とも重い空気だったが、それを押しのけるように屋島は陽気に聞いた。すると一人の幕僚が口を開いた。

「実は二佐に見てもらいたいものがありまして・・・・・・」

 幕僚はかばんの中から数枚の航空写真を取り出した。

「これは先日、小松の303飛行隊が石川県沖で撮影したものです。」

 屋島は写真を受け取ると、目を落とした。

 写真にはおそらく双発のジェットエンジンを積んだ戦闘機らしきもの一機、中央に少し小さめに写っていた。

「どう思われます?」

「私はパイロットであって軍事アナリストではありませんので、何ともいえませんが、これは自衛隊機ではありませんし、韓国や朝鮮、はたまた中国でもない。米軍の《F ―15》にも似ているが、その割には直線的機体だし、エンジンも大きい、おそらくこれはソ連のものでしょう。しかも噂に聞く”新型機〝」

 幕僚は大きくうなずいた。

「そうです。おそらくこれはソ連防空軍の《MIG-25》、NATOコードネームは《フォックスバット》、米軍でも《SR-71ブラックバード》の超高高度偵察と他に数回しか確認できていなかった機体ですので、これが米国以外の国で、世界初となるでしょう。」

「で、これを見せてどうしろと。」

「もうひとつ、この交信記録を聞いていただきたいのです。」

 そう言うと幕僚は部下にカセットテープを持ってこさせ、屋島にヘッドホンを渡した。そして部下は機械のスイッチを押した。

『This is Elmyla04. Request target position .』

『This is ApllonTarget position 030. range 90, altitude 32.エルミラ04、以後は特異事態につき、日本語で交信する。目標はこちらでは捉えているが、そちらはどうか。』

『だめだ、確認できない。ノーコンタクト。目標の位置を乞う。』

『すぐそこだ。丁度2時の方向。』

『あ?雲で何も見えない……ちょっと待て。目標確認!一機!これより接近して写真撮影を行う。』

『見たこともない機体だ。』

『エルミラ04、注意しろ。こちらのレーダーからも消えた。新型機かもしれない。念のため増援を上げた。』

『あ?何だ?よく聞こえな……ザザッ!』

『エルミラ04どうした応答せよ。応答せよ!』

 屋島は静かにヘッドホンを置いた。

「この写真はそのときに撮られたものです。幸いにも小松303飛行隊、エルミラ04のパイロット2名は自力で帰還、二人の証言によれば通信途絶の直後、目標機は急に進路を変えて、雲の中に隠れ、そのまま姿を消したそうです。しかし、電子機器の調子がそのようなものだったので、基地に帰還したとのことです。」

 屋島は腕を組んで、それをじっと聞いていた。

「で?それが私と何の関係があるんです?」

 すべて聞き終わったところで、少し間をおいてから屋島は訊いた。幕僚は静かに笑う。

「ええ、実は我々の仕事は情報収集やその類が目的でして、いろいろな情報機関との交流が多いのですが、ある機関からの情報で、明後日9月6日にソ連空軍の小規模な演習が行われるという旨が伝わり、その機関にこの写真を見せたところ、該当する部隊だということが分かりました。」

「それと我々とが何の関係があると?」

「明後日のスクランブル待機は貴隊ですよね。可能性が低いですが、スクランブル要請が出るかもしれませんので、一応この写真の機体の性能が分からないことですし、ある種の心の準備と言うことで。」

「心の準備ねぇ、自衛官らしくない表現だな。だが言っとくが、俺たちはあくまで現場の人間だ。聞いてるところその情報の出所はアメリカのようだな、彼らが嫌いなわけじゃないが、外人の要請で命をかける何て、ごめんだぞ。」

 その幕僚は笑った。

「あなたらしい。」

 幕僚はそう言っているうちに、いつの間にか彼の部下は荷物を片付け、部屋の外へ次々と出て行った。その幕僚もそれに続く。しかし、ドアの近くで、その幕僚は屋島に言葉を発した。

「まあ、あなたの過去から言えば、そのような水面下の葛藤と言うのが嫌いになるのも分からないでもないですがね。」

 その言葉に、屋島の顔は心なしか凍りついた。そして幕僚の顔を睨む。幕僚はさらに続けた。

「朝鮮戦争時、北側―朝鮮民主主義人民共和国軍人民偵察局で、当時実験的に設置されていた偵察飛行隊、あなたはそこのパイロットだった。まあ、訓練飛行もままならない飛行隊だったようですが……昭和二十九年、釜山上空で偵察飛行中に米軍の迎撃に遭い、そのまま海上に墜落、そこを近辺で掃海作業中だった海上自衛隊の掃海艇に回収され、そのまま朝鮮政府側と米国を経由した日本政府との秘密会談であなたの待遇が協議され、そのまま航空自衛隊に入隊し、日本人として生活を始めた。そうですよね、パク・イルファ少尉?」

 屋島はさらに睨んだ。そして静かに話し始める。

「……先刻承知と言うわけか。もはや関係者も居なくなり、風化しているものとばかり思っていたがな。そりゃそうだ。仮にも敵である東側の人間だった男だ。マークだってされるさ。だがな、俺ゃ金日成に狂信的までの忠誠を誓ってはいなかったし、あんたらを侵略者と思ったこともない。向こうの人間だったときからな……。確かに俺がここにいるのは、あのときの秘密会談があったからだ。だがな、俺はここで戦闘機に乗って、部下を持ち、妻を持って、子供を授かったんだ。もう、昔のことは忘れた。俺は屋島良治に他ならない。」

 幕僚はそれを静かに聞いていた。嘲る様な、とまでは行かないが、少なくとも彼の波乱万丈な人生に対する同情でもない、そういった表情だった。すべて聞き終わると、幕僚は無言で部屋を出て行こうとした。

「ちょっと待った、まだ名前を聞いていなかったな。」

 幕僚は振り返ると、少し笑みを浮かべて答えた。

「これは申し送れました。航空幕僚監部法制局の安里です。」







 結城は屋島が呼ばれた建物の外で話が終わるのをずっと待っていた。途中、制服を着た男たちが続々と出てきたので、おそらく話は終わったのだろうと思ったが、屋島本人が出てくるのはそれのかなり後だった。

「小隊長!」

 建物から出てきた屋島に結城は気さくに声をかけた。

「おう、待ってたのか。」

「ええ、何の話だったんですか。」

「……ちょっとな。」

 屋島の顔は心なしか沈んでいた。結城はそれに気が付いていたが、下手な詮索はなしとして、あえてそこから聞こうとはしなかった。



 2008/08/15:バラクーダさんから頂きました。
秋元 「艦長、そんなところで何やってんですか!(笑」
アリス 「……いえ、マスター。年代的に、艦長のお爺さんではないかと」

     第一章 Ⅱへ
戻る  トップ