序章 リエナの気持ち

 太平洋海上、某所。今日は快晴で、何も言うことのない天気だ。
 風も穏やか、甲板をなでる潮風もいつもよりもおだやかな感じがする。

 軍隊組織は人間が作っているものである。それは航海中の海軍でも言うまでもない。
 日本海軍の大型空母『雛菊』上では、戦時行動中とはいえどもそのほとんどは生活時間と考えて差し支えない。
 恒常業務と訓練、そしてその合間の休憩と休養のための時間。
 機械には整備の時間が与えられるように、必ず休息のための時間というのは存在する。

 まあつまり。

 暇があるって訳だ。


「おや、珍しいね」
 市川は、リエナが本を探しているのを見つけて声をかけた。
 彼としては、リエナは活発でヒトのことをおかまいなしにいつも走り回っている、という印象しかない。
 もっともコクピットにいる時には、よく周囲に気のつく良い娘だとも感じるのだが。
 そんなお調子者の彼女が本棚で本を探している姿など、ふつうに想像できない。
「む。珍しいって、ひどいよマスター」
 抗議するように眉を寄せて腕をぶんぶん上下に振り回す。
 ただ身長140程の少女がどんな貌をしてどんな仕草をしたところで、可愛いとしか思えないのがだ。
 市川も彼女の態度に苦笑して見せることしかできない。
「ああ、悪かった。ごめん。……で、何を探してるんだい?」
「探してるって言うか」
 そういうと、棚に手を伸ばして一冊の本を取り出す。
 小さなB6程の文庫本、どこにでもある小説のようだった。
「コレ!マスター、知ってるカナ?」
 そういってくるりと右掌で器用に本を半回転させて、両手でひょい、と差し出す。
 市川は首をかしげて右手で受け取ると、写真のようなイラストが描かれた表紙を眺めた。
 飛翔するMiG29と、その背後にあがる爆煙。
 タイトルは『2034・上』。
 市川は一瞬眉を上げたが、すぐ貌を戻してついと上目で彼女を見る。
 なぜかにこにこするリエナ。
 期待して返事を待っているようだ。
「ごめん、知らないな。初めて見るよ」
「そう?」
 だがそのタイトルそのものには彼自身だって記憶がある。
 2034年7月24日、それは少なくとも現在日本で軍役につけば否応なく最初に教えられる――開戦記念日だ。
 くるりと裏返して宣伝文句を読む。
 『あの日の真実、隠された歴史がここに』とある。
 もっともフィクションであることを明確にうたっているので、あくまで作者の創作である事は間違いないようだ。
「コレ面白いんだ〜」
「へぇ。リエナはこういった軍記物みたいなのを読むんだ」
 そういうと、リエナはきょとんとした貌で市川を見返した。
 言葉を理解するまでの数秒間、ぱちくりと瞬いてむぅ、と口をゆがめる。
「違うよ、マスター。コレ、恋愛小説なんだけど?」
「え?」
 市川が意外そうに声を上げると、リエナはいつものようににやーっとうれしそうに笑みを浮かべる。
 口元を勝ち気につり上げ、への字に曲げた目でにやにやと市川を見つめている。
 でもすぐにぱっと花が咲いたように笑うと続ける。
「気になるでしょ?」
 正直恋愛小説そのものにはあまり興味はわかない。
 と言っても、リエナの言うとおり興味はわいた。
「一応、リエナも女の子ってことだね」
「ちょっと、一応ってひどいよー」
 と、豹変するようにぷっとほおをふくらませて抗議する。
 くるくるとよく動く貌だ。
 女の子というよりも子供っぽい――その実、子供そのものなんだが――だけに、何をしていても許せるような雰囲気もある。
 実際には彼女の実力は子供どころではない。
 もちろん市川もそれはよく知っている、が、ここは戦場でも戦闘空域でもない。
 日常の、しかも図書室だ。
「あっはっは。ごめん。リエナ、普段本を読んでる感じじゃないから」
 市川は正直に言ってみた。
 飾っても仕方ないし、子供っぽいから、とはあまり言いたくなかったから。
 リエナはうーん、と眉を八の字に寄せて小首をかしげる。
 彼の言うとおり、実はあまり本を読む趣味がないリエナは、どう応えようか少しだけ迷った。
『そういうことなら、小説でも少しは勉強になりますわ』
 もみじの声がよみがえる。
 実際相談したくない相手ではある――何せ事につけそれでからかわれるのだから――が、意外に素直に相談に乗ってくれた。
 まじめな回答だったかどうか、そしてそれが役に立つのかどうかは疑問だったのだが。
 で、普段読まないような小説にも少し挑戦するつもりになると言うものだった。
 だがしかし、それは市川には言えない。
 というよりは答える事は、彼女には難しかった。
 なぜならこの小説を読まなければならない原因は、他ならない彼だからだ。
「はは、そんなに睨まなくていいだろう。でも普段の様子を見ていたら小説なんか読んでなさそうだったから」
「……ほめてないよマスター」
 複雑な気持ちでぷっと頬を丸くふくらませる。
 実際に本を読んでないので、別にどう思われても気にしない。
 でももしかしたら、ごまかせたかもしれない。
 そこまでリエナが考えられたかどうか……彼女は安心してふてくされて見せた。
「ごめん。それで、どんな内容なんだ?」
「うん。えっとねー」
 リエナはにこにこと嬉しそうに話し始めた。



その1
 10ミリメートルの奇跡


 なんでそんな自動車に乗ってるの。
 友人からはよく言われる言葉だ。
 でも彼女は気にしない。
 お気に入りの車は
 いつも出かける前にボンネットを開けて、指さし確認。
「クーラント……少ないかな?」
 じょうごとペットボトルでリザーブタンクへ緑色の液体を注ぐ。
 ボルトのゆるみとオイル漏れがないことを確認して、ボンネットを閉める。
 運転席に着いたら、一度深呼吸してからエンジンキーを回す。
 きゅるる、と独特の音にかぶるようにエンジンが息を吹き返す。
 なれないとなかなかエンジンがかからない。
 初めてこの車にのった時には壊れているのかとも思ったぐらいだ。
 なれた今では、かかる方が珍しいぐらいに思っている。
 調子よく一回でエンジンが回り始めればその日は運が良い。
 彼女はそう思いながら車庫からゆっくり車を走らせ始めた。

 ぼろ車。
 それは彼女なりの愛情表現に過ぎない。
 どんな機械でも、それは必ずある種の条件下で動くように定められた仕掛けでしかない。
 でも、それらのすべては人間の入力に対して応えるために作られたものだ。
 ヒトが動けば、必ず応える。
 もし応えないなら、それはどこかがおかしい。
 たかが道具、されど道具。
 彼女は――気がついたら機械好きになっていた。
 機械いじりの好きな女性は非常に少ない。
 油で汚れるものだし、何より肌が傷む。
 彼女はそれをいとわなかった。
 ただそれだけのことだ。
 機械に魂が宿る、という言葉もあるが、彼女自身は信じていない。
 だがこう思っている。
 機械が、まるで生き物のようにぐずったり調子を崩したり、はたまた元気に応えてくれるのは、それを作った人間のまねをしているのだと。
 どんな機械にも『ならし』がある。
 本来の使い方をするために、比較的低負荷でゆっくりとこなれていくのを待つ事を言う。
 これは、ならしをした人間のとおりになれて行くものだから、ならしの仕方が機械に残ってしまう。
 これが癖になるのだ。
 機械に優しいならしができたかどうか、機械は必ず応えてくれる。
 彼女の職業が看護師だということは決して関係しない。
 むしろ、彼女は人間より機械に優しい性格をしていた。
 古くさいダイヤル式のチューナーと、木目調のインパネに、本革仕様の内装。
 細いトラックのようなハンドルを、小さな女性らしい手で握る。
 ごーっという堅いタイヤが残すロードノイズも彼女には心地よいBGMだった。
 いつもの道をいつものように通り、スーパーで日用品を買ってトランクに詰める。
 小さな鞄ぐらいしかないトランクの隅には小さな工具箱。
 もちろん、この車を整備するための最低限度の工具類が予備を含めて詰まっている。
 意外と、古い車だが日常的な簡単な整備さえやっておけばエンジンが停止するようなことはない。
 実際、簡単な消耗品の点検さえ怠らなければ、おかしなところが判るので、致命的な事にはまずならない。
 時々だだをこねるようにエンジンの掛かりが悪いことを除けば、今のところ急に止まるようなことはなかった。
 そうでなくても今日は思いの外調子よく、エンジンだって一発でかかったのだ。
 ぱん、と小気味よくトランクを閉めるとうきうき気分でシートに着く。
 アクセルを一回踏んで、深呼吸。
 エンジンキーをさしてからシートベルトをして扉を閉める。

 きゅきゅきゅきゅきゅどるんどどどどど

 独特の排気音をあげて、エンジンが目覚める。
 気のせいか、若干スタートが遅かった気もする。
――気のせいかな?
 走り始めてからふっと気になったが、警告灯は一つもついていない。
 大丈夫なはず。
 ……だった。
「あら」
 アクセルの感覚が急になくなる。
 ワイヤが切れたのか、と思ったが違う。
 バネの感触はある。などと分析する必要も時間もなかった。
 エンジン音が急に消えたからだ。
 エンスト。
 ガソリンは……走行距離から考えて、漏れていない限り大丈夫。
 慣性で走っているうちに、彼女は判断してウインカーを出して路肩へゆっくり停車させる。
 ハザードランプを炊くと、後ろに回って赤い三角板を用意する。
 そして、車の前に回るとボンネットを開けた。
「……うーん」
 見た目は異状がない。
 エンジンブローや破損という感じではなかったから、燃料切れでなければ点火系を疑うべきか。
 唐突のエンジン停止は、特に旧年式のクラシックカーには起こりえる上、その原因は車や年式によって大きく異なる場合がある。
「……ディーラー呼ぼうかな」
 と、つぶやいてバッテリーを見てはたと手を打つ。
 ケーブルが外れている。本来ボディに接続されている部分のボルトがゆるんでいたようだ。
 これではバッテリーは+端子だけ接続されている形なので、どの電装品も動かないだろう。
「あーあ。たぶんこれかしら」
 完全に欠落してしまっている。これでは電気が流れるはずがない。
 夜中なら危なかった。判ったとはいえ、これではどこからかボルトを調達する必要がある。
 仮置きでよければ、とりあえず走ることができさえすればいい……とトランクに向かう。
 10mmのソケットレンチに、長い柄のスピンナを取り付けると、フェンダーを止めているボルトを緩めて、バッテリーから伸びたアース線を元の位置に取り付ける。
 きりきり、きりきりとボルトを締める音。
「……?」
 彼女は手を止めた。
 最近の電気自動車やハイブリッドカーはエンジン音がほとんどしない。
 タイヤも開発が進んだせいで、かなり静粛なものが増えてきている中、明らかにそれらとは違う音が聞こえた。
 いや、声か。
――うめき……?
 一度気になると人間の耳というのは同じ音を拾おうとし続ける。
 ヒトの体というのは、電気的な精密センサよりも感度がよく、訓練次第で精度も理論的にほぼ無限に極めることができる。
 声は、彼女の後ろの方から聞こえた。
 同じ方向、ざりという地面を擦る音と同時、何か声のようなものが聞こえた。
 振り向くと壁、コンクリートで囲われたような路地の入り口があった。
 音は比較的近い。
 彼女は工具を置くと、ゆっくり入り口から奥をのぞき込んだ。
「あ」
 何かが横になっている。
 見覚えがある。職業柄よく見かける姿――ヒトが倒れている姿だ。
 路地はベッドではない。
 思わず彼女は何も考えられなくなって、姿に駆け寄ろうとした。

  じゃき

 だが、彼女は数歩で蹈鞴を踏むことになった。
 ひゅ、と右腕が起き上がり、まっすぐ彼女を指さし――その手には、凶悪な黒い色をしたものが握られていた。
 ――銃
 そう理解した瞬間、姿は上半身を起こしていた。

 男。
 路地に倒れていたのは男だ。
 服装は、何かの作業服のような黒い綿の上下、はだけた胸元から覗くのは灰色のシャツ。
 彼の姿を確認した時には、抜き手を見せなかったように、既に彼は銃を握っていなかった。
「消えろ」
 銃をおろした。
 それは、危害を加えるつもりはないという意思表示。
 男が銃をおろす事を当たり前だと思っている平和な国の人間には判らないかもしれないが、『俺に係わるな』と同義。
――関われば殺す。
 暗にそう言っているのだ。もちろん、時と場合によっては後ろを向いた瞬間にずどん、というのもないわけではないが、その点ここは法治国家日本。
「えっと」
 そして彼女も日本人だった。
 躊躇することなく彼の元へと近づき、額に手を当てる。
「おい」
「けがしてるんでしょう?」
 まじめな顔で、彼女は男を睨むようにして言う。
「そんな格好でこんなに血を流して」
 職業柄、血の臭いはよく知っている。
 事故現場やひどいけがを負った人間というのは、自分の出血に結構気づかないものだ。
 だが血のにおいというものは恐ろしく異質で、わずかな臭いでも嗅ぎなれれば区別できるようになる。
 そして彼女が感じている血のにおいは、決して少ないものではない。
「どこ」
 男は困惑していた。
 見ず知らずの女にいきなり脅迫めいた聞き方をされれば誰でも困惑するかもしれない。
 もちろん、けがをしているのは事実だが、隠していないが目立たないようにしたつもりだった。
 やがて黙っている男を無視して、首から胸へと手を滑らせ始める。
「ちょっと」
「黙りなさい。死にたくないでしょう?」
 彼女は思い切りよく男の胸から脇腹へと手を差し入れ、気づいたように口をつぐんだ。
「……銃創だ」
 観念したのか男は言った。
「応急処置はできてるけど、このままじゃ駄目よ」
 男の服から出てきた彼女の手は、べとりと黒い血で汚れていた。
 既に出血そのものは大きなものではないようだ。
「病院に」
「すまないが黙って帰ってくれ。病院には自分で」
「これだけ出血して歩けるわけないでしょう?どうして横になってたのよ」
 何を言っても無駄だ。
 男はようやく気がついたのか、大きくため息をついて再び上半身を後ろへと倒した。
 彼女の言うとおり歩く体力は残っていない。上半身を起こして話をするのも大変なのだ。
 とす、と背中が地面にふれる感触もあやしい。
 大きく息を吐いて、彼は目を閉じる。
「……言うとおりだよ」
 脇腹が熱を持っているのが判る。
 どうにか内臓その物に傷は入っていないようだが、このままでは動くことも難しい。
「でも病院はダメだ。……」
 彼女の視線が彼に突き刺さっているのを確認するように目線を合わせて、ため息を付きながら再び逸らせる。
 納得のいく話をしない限り、この手の人間は離してくれそうになさそうだ。
「……金がないんだよ。あと、保険証もな」
 僅かな沈黙。
 状況が把握できない。
 男が気になって彼女を見ると、意外にも女性は少しだけすまなさそうに口元を歪めていて、先刻までの強気な雰囲気が消えていた。
 だがそれでも何か思案している風で。
「あの」
「なら治療だけでもさせてください。このまま放っていくのは人としてゆるせません」
 そう、そして言葉に重ねるように出てきた彼女の言葉は、やぶへびもやぶへび。
 追い払うつもりで逆に懐に抱かれてしまう――考え得る最悪の結果。
「赦すも赦さないもお前」
「はい、一応看護士で外科のセンセについてるんですよ?」
 そうじゃない、そう言いかけた男を思いっきり無視して笑みを零すとくるっと身を翻した。
 健常者の彼女を追うのに、今の体力ではまず無理だ。
 それに。
――大丈夫か?
 判らない。判らない。判らないけれども今は、確かに問題はないのかもしれない。
 いや、問題があるのはこちらではなく向こうであって。
 不発弾処理隊が一番困るのはなんだろうか。
 複雑な仕掛け?固着した信管?それとも周囲に居るはずの一般の民間人か?
 いや。
 違う。
 答えは、『それが爆弾だと明確に判らないもの』だ。
 それは彼らにとって、目的であるにもかかわらず完全に隠蔽され、目的を達成することすら不可能になることだってあり得る悪魔のような。
 代物。


「それで、名前は?」

 ともかくも。

「私は、乃野坂香奈恵(ののさかかなえ)」

 ここで、出会うべくして一人の男は彼女と出会った。

「俺は篠原健司(しのはらけんじ)だ。……しばらく、世話になる」

 日本が激動する二〇三四年の、今まさに梅雨に入ろうとしている六月の事だった。



 2007/12/23:日々野 英次さんから頂きました。
秋元 「旧車愛ですね。エンジン音で思い出しましたが、我がプレオに乗ったあとに親父のレクサスに乗ると、エンジン音がまったくしないと言う_| ̄|○ しかし! このエンジン音がいいんじゃぁないか!?」
アリス 「……枯れる枯れると言われ続け、またまた40年後には枯れると言われる2053年」

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